生命とは何か : 物理的にみた生細胞

推薦文

生命とは何か : 物理的にみた生細胞
著者:
シュレーディンガー著 ; 岡小天, 鎮目恭夫訳
出版社:
岩波書店
ISBN:
9784003394618
所蔵:
医学図書館 ほか
467:Sch

(※冊子ではスペースの都合で掲載できなかった全文を公開しています)
 鳥取大学創立70周年を記念して鳥取大学附属図書館報で『鳥取大の70冊』という企画があるので、鳥取にあるいは鳥取大学に関する一冊、あるいは鳥取大学の学生に読んで欲しい一冊を、推薦文と共に紹介して欲しいとの依頼を頂きました。
 実は、昨年、「私の選んだこの一冊」というタイトルで本を紹介して欲しいとの依頼を受けて、ワトソン・クリックのDNAの2重らせん構造の発見にまつわる秘話を題材にした『ダークレディと呼ばれて』を紹介しました※1。その際に、紹介文の中で「シュレディンガーの『生命とは何か』とどちらにしようか、最後まで迷って……」と書いたことを鮮明に記憶しております。今回は、前回紹介できなかったシュレディンガー先生のこの名著を鳥取大学の学生諸君に読んで頂きたく、本書の紹介に加えて、20世紀から今日に至る科学の発展の大きな変化について私見を交えて述べさせて頂きたいと筆を執りました。
 皆さんはシュレディンガーという名前を一度は聞いたことがあるのではないでしょうか。有名な『波動方程式』を導いて1933年にノーベル物理学賞を授与された著明な理論物理学者であり、現代物理学の主流ともいえる量子力学の基礎を築いたと言っても過言ではない科学者です。そのような高名な物理学者が『生命とは何か?』という明らかに分野の違うテーマになぜ挑んだのか、という点も興味深いのですが、さらに興味深いのはこの本はオーストリア人である彼が1943年2月に第二次世界大戦の中立国であったアイルランドの首都ダブリンで一般の聴衆に向けて行った講演を文章にまとめたものなのです。当時はテレビもインターネットも無い時代ですので、この本がその講演の聴衆にしか伝わらないことを補う目的で全世界に発信されたということは著者の意図がどこにあったのかを推察する上でたいへん重要であると思います。
 この本の内容は、「生命とは何か?」の最も核心の疑問−無生物にはなくて生物だけにある仕組み、すなわち遺伝の仕組みや突然変異のメカニズムについて理論物理学を極めた科学者の視点から、当時判明しつつあった事実を丁寧にかつ詳細に、しかし、一般人にも理解できる整然とした論理と分かり易い模式図を使って記述しています。そのため現代の生物学を修めた学生であれば中心テーマを記述した1、2、3章はおそらく難なく理解できるレベルです。ただ、当時はまだ遺伝子の本体がDNAであることすら証明されておらず、DNAの構造はおろか、複製メカニズムなどまったく判明していなかった(年表参照)ことから、一般人にはもとより、科学者にとっても生命の本質は神秘的な、言い方を変えれば曖昧模糊とした不思議な存在であったと推察されます。また、物理学や化学の専門家からは自分達の領域で使う数式や物質科学の理論を応用しての論理展開を許さない、そして生命の本質を覆う何やら神聖な見えないカーテンが邪魔をして(たとえ入り口に立っても)その先に進む気にもならないような対象であったのではないでしょうか。そのような時代にあって、専門外のシュレディンガー先生が当時判明していた事実から生命の本質を見極め、情報発信する意義を感じていたことは驚嘆すべきことであります。ノーベル賞受賞者の発言が相当なインパクトで受け取られるのは今も当時も変わらなかったはずであり、シュレディンガー先生も当然そのことを良く理解されていたと推察されます。そのような視点を心の隅に置いて本書を読まれると感動はより大きくなると思います。
 この本の優れた点はその内容だけでなく、「まえがき」や「あとがき」も秀逸で、まさに必読です。本書の訳者は2名とも高名な日本の物理学者です。とりわけ、その一人である岡先生が「あとがき」で書かれている文章がたいへん印象的で、「本書は戦後の混乱期の物理学者、生物学者を核酸の生物物理の研究へ決定的な影響を与えました」とあります。今、我々がこの一節を読めば、それが後のワトソン・クリックの2重らせんの発想(1953年)を導き、ひいては世紀をまたいで京都大学の山中先生のiPS細胞の発見(2006年)など現在の医学・生命科学研究の興隆へと繋がっていることは明白であろうと思われます。
 1943年が科学以外の世界ではどういう年なのか、についても蛇足ながら補足しますと、連合軍のノルマンディー上陸の約1年前、広島、長崎での原爆投下まで約2年です(文末年表参照)。原子物理学は20世紀前半に飛躍的に進歩しましたが、一つの結果として大量破壊兵器を生み出し、それ故に「死の科学」としての汚名をかぶることになります。おそらくは多くの科学者が戦後の混乱の中、自らの使命について自問自答したことでしょう。そして、その研究が大量破壊兵器の開発・製造に関係していた科学者には、自問自答よりはむしろ自責という表現が適していたかもしれません。本書が、その当時は物理学者や化学者の関心を引き寄せることもなかった生命科学に多くの優れた人材を巻き込むことに奏功し、人類に幸福をもたらし未来へと繋がる「生の科学」の興隆へと転換するのに大きな役割を果たしたことは疑いの余地がないと私は確信します。それこそシュレディンガー先生が晩年を理論物理学研究の傍ら、専門外の生物学研究の啓蒙に努めたことの最大の成果であろうと、その英断と慧眼に心から敬意を表したいと思います。シュレディンガー先生は当時として長命で1961年に亡くなりましたが、もし現代の生命科学の発展をご覧になったとすれば、DNA複製のメカニズムが塩基間の水素結合であることや、分化済みの体細胞のDNAを人工的にリセットして望んだ(現在ではまだ限定的ではありますが)細胞へ分化誘導できるようになることに勇気を得て、波動方程式を生体分子へ応用した理論を再構築しようとされたのではないか、と想像しながら筆を置きたいと思います。
年表
※1 鳥取大学附属図書館報 132: 3-4, (2019)(PDF)

鳥取大学
農学部共同獣医学科教授

澁谷 泉

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